少し成長したかな?
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京都に来ています。
来週二十歳を迎える息子のお祝いをしようと、連れ合いと義妹の三人で昨日から来ているのです。
昨夜は四条河原町の居酒屋で飲みました。ちょっとお洒落な焼酎バーといったところか?
小生、四条河原町での青春時代の痛恨の思い出話をしました。
こんな話です。
ちょうど30年前の1978年夏。
福岡は“大渇水”で大学が休校になった。当時、挫折と目的の見えない焦燥感と失恋のショックで落ち込んでいた小生は、京都旅行をして関学のM田と立命のM浦と三人で四条河原町にある焼き鳥屋で飲んだのだった。
三人で盛り上がって日本酒(当時の京都ではまだ焼酎を置いている居酒屋はなかったと思う)をお椀で飲み始めた。
周りのお客さんも「さすが九州男児は強いわ~!」とはやし立てるので、更にボルテージが上がって日本酒のイッキ飲みをグイグイと・・・・。
(その辺りから小生の記憶は途切れ途切れなのだが?)
ヘベレケになるまで呑んで、「九州男児帰りま~す!」と言って店を出る時には周りのお客さんから拍手を貰ったのを覚えている。
それから、京都御所の横を《インターナショナル》や《国際学連歌》を唄いながら歩いた。M田とM浦は《インターナショナル》や《国際学連歌》は知らなかったが《がんばろう》だけは知っていた。
筑後で生まれた歌だからね。
3人で肩を組んで歩いていたのだが、小生は突然卒倒したらしい。
それから、泡を吹いてイビキを始めたらしいのだ。
その後小生の意識が回復したのは、堀川病院のベッドの上だった。
救急車で運ばれたのである。
M田とM浦は、小生の意識が戻った時は涙を流して喜んでくれた。
ただ三人ともお金を持っていなかったので、病院は小生の実家に電話をして身元を確認してから、治療費を帰宅してから現金書留にて送る約束の上で“貸し”にしてくれた。
実家に戻った小生は親父からおもっいっきり殴られた。
そんな思い出話をしたら、連れ合いから「やっぱりお父さんには日本酒は飲ませられんね」と言った。
小生日本酒は好きですが、今もチョット呑んだだけで記憶が飛びます・・・(涙)
気分よく二十歳の息子のお祝いをして飲んだ後で、四条烏丸通のホテルに戻りました。
が、男二人は「締めにラーメンを食べに行こう」と云う事になりました。
息子が「今まで食べた中で一番美味しい塩ラーメンがこの近くある」ってんで、連れ合いと義妹と別れて、四条烏丸通りのホテル日航プリンセス京都近くのラーメン屋を目指しました。
が、
生憎の休業日(T^T)
ならばと近くの美味しいラーメン屋を探して歩くことにします。
烏丸通りを三条方面に上がって行くと「一風堂がある」と云うが、
「京都に来てまで一風堂は無かろうもん!せっかく京都まで来たっちゃけん、京都のラーメンば食おうぜ!」と小生が主張して、次に見つけた『京風…』と書かれた店に入ったのですが……。
これが、
マズイ!
スープを飲むことが出来ない。
日本一マズいラーメンで誕生祝いを締める事になってしまいました。
河島英五の《野風増》のようには行きません・・・・(涙)
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この夏お盆に帰省した際に家族で親父の米寿を祝った。
足腰の弱った親父は早々に自室に戻り、お袋と4人の兄弟・家族で思い出話に花が咲いた。その宴の最中、お袋が一枚の封筒を小生に渡した。親父が渡すように託していたそうな。
開いてみると、それは2000年に息子が夏休みの自由研究課題として【おじいちゃんの戦争体験】をレポートするために作成したアンケートの回答(手紙)だった。
実に7年越しの返事である。この返事がいつ書かれたのかはお袋にも判らないとのことだった。
このアンケート、タテマエは息子の夏休みの宿題と言う事にしていたが、本当は小生自身が聞いてみたかったんだと思う。
昭和16年6月1日、23才で召集令状(赤紙)一枚で青春時代を戦争に盗られ、その後の人生も大きく狂わされた。
親父は元気な頃、酒に酔うとよく「俺が家族の中で初めて海外旅行してきたとばい」と楽しそうに語っていたが、親父の海外旅行とは戦争に他ならない訳で、極寒のシベリア抑留生活も体験している。
赤紙が届いた日から終戦(敗戦)の日までは親父がどの地で何という部隊に配属され、移動した日、昇進した日が正確に記されていた。
日記を残していたわけでもなく、最近は痴呆が進んで時々孫に小生の名前を呼んだりしている有り様なのに、凄い記憶力だと兄弟4人で感心した。
また、軍隊内の日常生活や街の様子なども詳細にレポートしている。
親父が配属された満州第306部隊はロシアとの国境をの最前線だったが、開戦後も暫くは皇軍慰問団といって“東京大相撲”や歌手の慰問団が訪れたりと、割と穏やかな日常生活だった事が伺える。
しかし、8月15日を境に様子が一変する。
これまで虐げられてきた満州国民の反乱と逃げ惑う在留邦人。
しかし、国民を護るどころか我先にと帰国を急ぐ下士官、残されたのは末端の下級兵士ばかり。
駅には待てど暮らせど来ない列車を待つ邦人で溢れ、警護を依頼されるがもはや組織としての体を成さない軍隊にはその任を果たすことは出来ない。
どうすることもできず、呆然と幾日かを過ごしたようだった。
レポートはそこで終了していた。
お袋が「これからが大事なんやから書かんね!」と説得したらしいのだが、「思い出したくない」と言って続きを書こうとしなかったらしい。
この後親父は2年間シベリア(イルクーツク)抑留の後に帰国した。
引き揚げ後は一家の長男として百姓に専念して、社会との接触を断つかのような半生を送る。
軍人会などの集まりに参加したと云う話などついぞ聞いたことがない。
それでもまだ若い頃はシベリア抑留生活について語っていたらしいのだが、歳を経るに従って戦時中のことを語ることは無くなった。末っ子の小生は3人の兄から殆ど伝え聞くだけであった。
息子は「続きを受験が終わってから聞き書きしてくるよ」と言うが、親父に残された時間は少ない……
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